プロフィール

<ケパリの会>

Author:ケパリの会
お問いあわせ:
hakkyo424★gmail.com
(★を@に変えてください)

~立ち上げ趣旨文~
1910年の「韓国併合」から100年。
歴史との向き合い方をふりかえり見つめなおすという意味で節目の年となりえたはずの2010年は、わたしたちの期待とはまったく異なる意味で歴史に残る1年となりました。

2010年4月より、日本政府は「全ての意志ある高校生等が、安心して勉学に打ち込める社会をつくるため」、高等学校における授業料の全額または一部を「国の費用」から支給する制度(「高校無償化」制度)を発足させました。
この制度では、各種学校として設置されている外国人学校も「高校無償化」の適用対象となっており、当初は朝鮮学校もその対象に含まれていました。しかし、外交問題を理由に、突如朝鮮学校は「無償化」制度の適用から除外され、こうした状況は2011年3月現在も依然として続いています。さらには、いくつかの地方自治体では、これを機に朝鮮学校への助成金が停止されるという事態まで起こっています。

 日本には約70校の朝鮮学校が存在しています。朝鮮学校は、植民地期に日本に渡ってきた朝鮮人の子どもたちが民族の言葉や文化、歴史を学ぶ民族教育の場として発展してきました。現在も、朝鮮半島にルーツを持つ多くの子どもたちが朝鮮学校に通っています。しかし、日本政府は一貫してその存在意義を認めてはおらず、朝鮮学校に対して国庫からの補助を行っていません。在日朝鮮人も日本人と同様に納税の義務を負っているにもかかわらずです。また、地方自治体レベルでは朝鮮学校への助成を行うところもありますが、その金額は日本の公立・私立学校と比べると低い水準にあります。このため朝鮮学校の運営者や教職員、保護者の経済的負担は大きいものになっています。

 朝鮮学校に対する差別は、政策レベルにとどまりません。京都市では排外主義を掲げた「市民の会」と銘打つ団体の人々等が、子どもたちが学ぶ朝鮮学校を襲撃し、罵声を浴びせるという事件が起こっています。このような事態の根本には、日本社会の朝鮮学校に対する無知や無理解、無関心があると考えられます。

わたしたちは、このような日本社会の現状をよりよいものへと変えていくために、京都の朝鮮学校を支援するネットワーク「ケパリの会」を立ち上げました。「自分たちが情報発信や意見交換の場をつくりだしていくことで、日本社会にある朝鮮学校をとりまく偏見や差別を少しでも取りのぞいていきたい」。こうした思いを共有する多様なアイデンティティやルーツ、所属、社会的立場の人びとがこの会に集まっています。
「ケパリ」というのは、醤油漬けされたエゴマの葉のこと。食卓によく登場する朝鮮の家庭料理です。わたしたちは、朝鮮学校を支える人びとのネットワークを、たとえばこの「ケパリ」のように、身近で親しみやすいものとして広げていくことを目的に活動しています。

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バーバラ デミック「密閉国家に生きる-私たちが愛して憎んだ北朝鮮」(中央公論新社2011)

Category : 本の紹介

                        
 朝鮮学校が高校無償化の対象から除外されてから2年の歳月が流れようとしています。こういう理不尽な事態が続いている背景には、朝鮮民主主義人民共和国(以下、「北朝鮮」)に対する日本政府や日本社会のありかたが大きく関わっています。昨今の日本社会の状況を踏まえながら、最近読んだ『密閉国家に生きる(Nothing to envy)』の感想と、筆者とは異なる自分の思いを書いてみたいと思います。
                                

昨年3月11日に起きた、東日本大震災。あまりの事態に言葉を失ってしまう現地の被害状況、安全神話を突き崩された原発の問題と国や企業の責任追及。この震災は、さまざまな形で日本社会全体を大きく揺るがしたといえます。

被災地の復興が求められる中、いつのころからか、ともに頑張ろう被災地、ならまだしも、「がんばろう、ニッポン」という掛け声が始まりました。海外からの応援の声なら分かりますが、国内で自発的に生まれたこの声は、オリンピックの声援のごとく、無前提に多くの人に共有(強要?) されています。このキャンペーンを聞いたとき、これまでの日本国家のありかたや政策に対して問い直す、或いはそのありかたに異議を唱える雰囲気を押し潰してしまうような恐ろしい感を受けてしまうのは私だけでしょうか。

昨年12月に隣の国の為政者が死去したとき、それを悼む声はほとんどなく、興味本位であったり危機を煽る類の記事や報道が日本列島を覆い尽くしました。いつのときも、「北朝鮮」について流されるおおかたの情報は、不安定で異常な社会体制で、「核とミサイルと拉致」に象徴されるような恐ろしく、気持ち悪い国というイメージでした。物笑いや蔑視の対象ではあっても、対等な一国家としての視点は全く欠けているといえます。がんばるニッポン、頑張らなければならないニッポンが成り立つためには、悪しざまに罵り鬱憤を晴らすことができる、そんな対象が必要なのでしょうか。

 隣の独裁者が死んだら、あの国は変わるだろう。そういう観測が報道の中で多数を占めるとき、はたしてどれくらいの人が自分たちの住む、この変わらない国・日本のありかたに思いを馳せたでしょうか。「隣の独裁国家」には変わることを期待し、要求し、変わらなければ「やっぱりあの国は」と勝手に話し相手としなくなり、蔑視と罵倒のための大切な対象として大事にとっておく。そういうあなたは誰なのか?

 僕は日本国籍を生まれた時から所有していて、この国の参政権を付与されています。いま日本国籍者による選挙から成り立つ日本国政府は、長期にわたって「北朝鮮」に経済制裁を続けています。拉致問題など事あるごとに制裁に制裁を重ね、それを保障する法律まで作ってしまいました。経済的圧力だけではありません。日本政府は沖縄などを犠牲にして在日米軍を思いやり予算などの特典で保護しつつ米軍基地を置き、在韓米軍と一緒になって、「北朝鮮」に軍事脅威を行使しています。米軍が一たび韓国軍とともに「北朝鮮」に軍事進攻を行うならば、日本政府は周辺事態法と有事法制をもとに米軍を支援し爆弾をたくさん落して数知れない人々をボタン一つで殺傷することができるのです。アフガニスタンとイラクにおいて、「テロリスト」や「独裁者」を懲らしめるため、あるいは「自由と民主主義」のために、どれだけの無辜の民が米軍によって殺され傷つけられたでしょうか。国家的テロリストと言えるアメリカの尻馬に乗りつつ、「北朝鮮」に対して日本政府は制裁と脅威を行使し続けてきました。「北朝鮮」がさも大層な脅威であるかのように触れ回りながら、その実、他国の軍隊を置かない「北朝鮮」にとっては日本とその背後のアメリカはどれほど脅異なことでしょう。

相手にとっての自分の存在を意識することなく、とりあえず相手に一方的に「変わる」ことを要求する。脱北者が「北朝鮮」の国家体制における犠牲者であるのは事実ですが、その人たちの声を利用して、あたかも自分たちの側が正当で、十全な民主主義の国に暮らしているかのように傲慢にも錯覚して「北朝鮮」国家にだけ変革を望むのであれば、それはひどい筋違いな話ではないでしょうか。



さて『密閉国家に生きる(nothing to envy)』を読んだ感想を書きたいと思います。脱北者6人へのインタビューをもとにアメリカのジャーナリストによって書かれたこの本は、しょうじき僕にとっては興味深くて面白い本でした。著者がアメリカ人で、翻訳者が日本人とは思えないほどの見事な筆致で、読む人に次へ次へとページをめくらせてくれます。あたかも「北朝鮮」に住むひとが語るように、登場人物は生き、恋をし、葛藤し、苦しみ、そして今も生きています。「北朝鮮」の社会環境の描写が事実と違う、とか歴史的事実を踏まえていない粗い記述だ、との批判もあるかもしれませんが、僕はこの本の人物描写の躍動感に少なからず惹かれました。それは同時に、1990年代後半に「北朝鮮」を襲った深刻な飢餓状況が、その当時を生き延びた人々の視点で、あまりにリアルに表現されていることでもあります。何十万、何百万ともいわれる人たちが、まったくなんの意味もなく飢えや病気のために死んでいった事実を、どう受け止めたらいいのでしょうか。この時期はちょうど僕が学生時代を過ごした時期で、街頭募金や集会とか運動した記憶はありますが、日本という地にあっては想像すらできない事態が進行していたんだなと愕然とさせられました。そういう極限的な状況の中で家族や周りの人を失い、自分もまた生き延びるために、登場人物たちはそれぞれの事情で脱北を決意し実行します。韓国で生活することになって、壁を感じながらも新たな生活を始めようと葛藤していく登場人物たち。そのうちのジュンサンはいずれは祖国再建のために尽くしたいと思い、ミランは「北朝鮮」の教育システムに貢献したいと願っています。韓国の生活になじんできた一方で、北に残してきた家族のことがやはり気にかかっています。



 このように離散を強いられた人たちの歴史や存在や思いを目にするとき、なによりも彼らの“自由往来”がなされなければならないと思います。そのために必要なことは、この本の筆者が結論しているように「北朝鮮の政治体制が変わること」でしょうか。

僕の意見では、周辺国が「北朝鮮」に加えている制裁や脅威をなくすことが不可欠であると思います。日本であれば過去の朝鮮侵略に対する真摯な謝罪と補償をおこなうこと、制裁を撤回し敵視政策ではなく友好的な関係の中で経済的支援をおこなうこと、朝日国交正常化がなされなければなりません。朝鮮半島全体のことで言うならば、朝米平和協定、北南朝鮮の平和的統一が成し遂げられることが必要であると思っています。


キム・ソンボ,キ・グァンソ,イ・シンチョル
コモンズ
発売日:2010-12



なお、「北朝鮮」の政治体制を知るうえで、『写真と絵で見る北朝鮮現代史』(コモンズ、2010年)は参考になりました。2003年頃に韓国の研究者によって書かれた本で、最近の情勢は押さえられていませんが、解放後朝鮮半島の北半部で政治体制がどのように歴史的に形成されていったかがよくわかる良い本だと思います。(おわり)


山口純一郎 (愛称、かまんもり)


                                 
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朴正恵著 『この子らに民族の心を~大阪の学校文化と民族学級~』(新幹社 2008年)

Category : 本の紹介
 
この子らに民族の心を―大阪の学校文化と民族学級
この子らに民族の心を―大阪の学校文化と民族学級

このブログが主題とするものとは、少し趣が違ってくるかもしれないが、今回紹介するのは戦後から現在まで朝鮮学校と同様、粘り強く営まれてきた民族学級の軌跡を記したこの本。
 日本における民族教育は、朝鮮学校によるものだけではない。1948年阪神教育闘争の末、大阪府では知事と朝鮮人代表者との間で覚書が交わされ、公立学校における民族教育、すなわち民族学級の可能性が、妥協の産物であったとはいえ、開かれた。
 開設当初、民族学級は教職員をもふくめた周囲の無理解、そしてそれに必然的に伴う不協力によって、1970年ごろにはすでに衰退の危機を迎えていた。しかし、在日朝鮮人生徒の「ウリマル(朝鮮語)を習いたい」との純粋な訴えから、長橋小学校に民族学級が新たに設置されたことをきっかけに、公立学校における民族教育はまたにわかに広がりを見せる。その後、民族講師への不十分な身分保障や、偏見に基づく取り扱いといった、制度上もしくは生活上のさまざまな障害に直面しつつも、民族学級は真正面から行政と交渉を重ねたり、様々な地域、学校と連携したりすることで、粘り強く拡大、発展を遂げ、2005年には大阪市内の民族学級が100校を越えるまでになっている。
 各地の民族学級の取り組みが時系列順とはいえ淡々と、しかも時には複数の異なる当事者によるレポートを交えて述べられているので、読者によっては読みにくさを覚えるかもしれない。しかし注目すべきは、様々な地域の、様々な立場の当事者がこの半世紀以上にもわたる民族学級発展運動を語る(ことができる)という、まさにその事実であって、民族学級がこれほどまでの拡大、発展を遂げられたのは、民族講師らはもちろん、保護者、日本人教員、教職員組合をも巻き込んだ非常にダイナミックかつエネルギッシュな運動が繰り広げられてきたからこそなのである。
 しかしそれはとりもなおさず、運動に関わっている当事者間において、「教育は子どものためにある」という共通の理解があるからだ。教育環境に不足点があったらば、それは子どもたちを囲んでいる大人たち全員の課題なのである。そう考えると、民族学級の拡大発展についてこのように多くの人々が関わることになったのも、また当然のことであったといえるのではないか。
 また、公立学校における民族教育という、(語弊があるかもしれないが)一般的認識から言えば「特殊」な形態であるこの民族学級というものは、そこに通う生徒に自らと「朝鮮」とのつながりを肯定的に提示するだけでなく、その他の生徒たちにも「朝鮮」なるものとの出会いの機会を提供する。子どもたちはそれぞれ固有の「自分らしさ」と、他の子どもたちのそれとの「違い」を認識し-それは時には差別的事象を生み出すかもしれないが、しかし-そのなかでこれからどう「共に生きる」かという、真の「人権教育」「共生教育」の実践と発展の可能性がそこに生まれるのである。
 以上のほかにも、この本には民族学級のさまざまな形態、特徴、成果や課題が述べられており、民族学級という取り組みがいかに重要な意義を有しているかが、当事者自身によって現場の感覚そのままに、生き生きと語られている。そうすると、この本を読み通したときに浮かび上がってくるのは、単なる民族学級の歴史的事実ではありえない。
 民族学級に携わる民族講師や日本人教職員らは、活動家であると同時に、本分として教育の専門家である。制度や環境の整備、保障を求めつつも、そのときそのときの社会状況、子どもたちの変化に応じ、現場において最先端の教育的問題にも取り組まなくてはならない。そこにおいて貫かれているのは、先述したが、何よりも「教育は子どもたちのためにある」という信念である。本書に記された歴史的事実は、決して無機質なものと見るべきではない。当事者らが民族学級(民族教育)の発展のために情熱的に取り組んできた、いまだに熱を帯びている足跡なのである。

(ほのやまさん)

来栖良夫著 『ルポルタージュ 朝鮮人学校』(太平出版社 1968年)

Category : 本の紹介
朝鮮人学校―ルポルタージュ 異国の中の民族教育 (1968年) (シリーズ・日本と朝鮮〈5〉)
朝鮮人学校―ルポルタージュ 異国の中の民族教育 (1968年) (シリーズ・日本と朝鮮〈5〉)

1968年に出版されたものだが、その鋭さ・輝きは全く失われず、40年以上経った現在の状況においてこそ読まれるべき一冊。

 日本の学校すらなかった家島群島(瀬戸内海に位置する)の西島に存在した朝鮮学校の物語から始まり、在日朝鮮人の民族教育の歴史に話が展開される。
 植民地支配の中、虐げられ、人間性を否定された朝鮮人がどのように解放(8・15)を迎えたのか。そして解放後何を想いどのような営みがなされたのか。本書にも描かれる、民族教育を求め自力で作りあげていく様子は、そうした在日朝鮮人の心情・行動を顕著に表す。「金のあるものは金を、知恵のあるものは知恵を、力のあるものは力を」のスローガンの通りの営みが、朝鮮人の住む所々で繰り広げられたということが想像できる。日本の敗戦直後の時期に、国語講習所から学校へと、草の根的に又は組織によって体系的に学校が建てられていく様子を見ると、在日朝鮮人が民族教育にどれほどの期待・希望をかけていたのかがわかる。同時に本書に描かれたような当時の様子は、日本による支配がどれほど朝鮮人の尊厳・人間性を奪ったかを逆照射する。
「学校もろくにゆけず、日本へながれ、日本社会の下づみのところへ投げこまれてきた過去や現在をおもいうかべながら、『こいつらだけには、おれたちのようなみじめなおもいをさせたくない』」(p33)という親たちの想いと献身的な姿。ほとんどの私財を投げうってまで学校に寄付する地域の同胞の姿。賃金が十分に出せない状況の中でも、知恵を振り絞り同胞たちの期待に応えようと努める教員たちの姿。そして何よりハッキョにおいて、祖国への想いを胸に、当たり前に朝鮮人としての自覚と素養を身につけ、誇りに思う学生たち。そうした自分たちの自然かつ当然の感情・要求、自分たちの民族の尊厳を取り戻す営みが描かれる。それが、解放後も続く弾圧に対する闘争となっていくのである。
そうした在日朝鮮人の民族教育を求める想いは、朝鮮学校にだけでなく、日本の学校に通う朝鮮人学生にも表れる。本書の「Ⅵ 日本人学校の朝鮮人生徒」には、日本社会による制度的・社会的疎外と暴力の雰囲気の中、自分の出自に葛藤しながらも「民族」をとり戻していく朝鮮人学生の姿が描かれている。同時にそこにも、祖国の分断(また日本による加担)と日本社会における疎外といった、植民地支配・植民地主義・東アジア冷戦構造の暴力が、個々の朝鮮人にどれほど大きな傷をあたえているかが見える。
「在日朝鮮人の民族教育にたいする攻撃は、日本の平和と民主主義にたつ教育への挑戦であり、教育の軍国主義化へのコースである。」(p210)「情勢はうつりかわって今日にいたっているが、日本政府の朝鮮人学校にたいする態度はすこしも変わっていない」(p218)といった著者の言葉はそのまま現在の状況にも(現在にこそ)当てはまる。つまり、日本政府・日本社会は(在日)朝鮮人の民族教育の権利をこの100年以上の間侵害し続けており、その上で戦後日本の「平和」と「民主主義」が語られているのである。戦後日本の「民主主義」「平和」がどれほど茶番であるかがわかる。2000年代の在日朝鮮人弾圧、2010年度からの高校「無償化」制度からの排除、地方行政による補助金の停止(略奪)もその線上にある。そして、近年さらなる軍国主義化・ファシズム化に止まることなくつき進んでいる。朝鮮学校への弾圧は全在日朝鮮人への弾圧である。朝鮮学校への弾圧と日本学校に通う朝鮮人生徒への攻撃は同時進行である。朝鮮学校だけを「特殊化」してしまうことは植民地権力(あえてこう呼ぼう)のマイノリティ分断策に乗ってしまうことになりかねない。
「朝鮮学校について知ろう!」「朝鮮学校の生徒の声を聴こう!」「共に活動しよう!」
そうした声を否定はしない。だがその前に、民族教育の現場には自分たちの言葉や文化・歴史を学ぶという人間の当然の感情と営みがあるということを感じること、等身大の学生の姿を想像すること。そうした感性や想像力が必要ではないだろうか。それは民族学校にだけあるのではない。一人一人の朝鮮人の民族教育を求める、時には自らを否定してしまう声にならない「声」を聴くことの大切さ。本書に描かれた朝鮮人学校(民族学級や青年学校なども含めた意味での)の学生たちの姿は、そんな当たり前のことを教えてくれる。そのような当たり前の営み・当たり前の可能性を奪い続けている日本社会の暴力にこそ目を向け、抗っていかなければならない。

(h)
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